特集記事アーカイヴ Issue 2003.11-12
Can you hear? Yes.
text: 永瀬彩子 Ayako Nagase
大学院に入学するために渡英したのは、今から1年ほど前、2002年7月のことだ。私は園芸学を専攻しているのだが、イギリスでの植物の使われ方がとても好きで、修士号をここで取ることにしたのだ。
外国語の中で暮らすということはとても大変だが、日本にいるときにはあまり意識することがなかった言葉というものをよく考えるようになった。うまく機能しない時があるからこそ、言葉が生み出す哀しみや暖かみ、その裏にあるものや狭間にあるものに敏感になったような気がする。
イギリスに来たばかりの時、英語をうまく聞き取ることができない、話すことができないということがしょっちゅうあった。日本で聞いていた英語は分かりやすい英語で、日本にいる外国人は私の英語もきちんと分かってくれた。しかし、イギリスに来てからは、訛りのある人、はっきり喋らない人、早口な人の英語を聞き取らなければならないし、正しく話さなければ理解してもらえない。聞き取れない時、Sorry? と聞き返すと、全く同じスピードと同じ表現で言ってくる。分からなくて、もう一度聞き返す。また、全く同じことを言う。それでも分からない。でも、3度目はない。肩をすくめ、もういいよ、と言われてしまう。多くのイギリス人は何度も同じことを言うことが嫌いなのだ。
私が話すときは大体逆のことが繰り返される。私が何かを言う。分からないと言う。表現を変えながら2度繰り返しても理解できない場合は、何を言っているのか分からない、もういい、と言われてしまう。会話はそこで途切れる。
もしスムーズにいったならば、どんな会話が続いていたのだろう、と思う。もしかしたら、一生忘れることができないすごいエピソードが語られようとしていたのかもしれないし、その人をものすごく好きになるぐらいの素敵な会話が続けられたのかもしれない。いずれにせよ、会話は途切れてしまい、中途半端に終わってしまった会話は取り残されたまま、行き場を失って、どこかへ消えてしまうのだ。
イギリスでは1年間に2回、1日が24時間ではなくなる。夏時間の始まりと終わりだ。
イギリスに来るまで、私は時間というものは一方向へ流れていくものと思っていた。時間は取り返すことができないし、早く進めたいと思ったとしても、そんなことは決してできないと。でも、イギリスでは、時間が戻ったり、早まったりする。
3月の最終土曜日、午前0時に夏時間は始まり、時計を1時間早める。11月の最終土曜日、午前0時に夏時間は終わり、時計を1時間戻す。
一体、この1時間はどこへ消えてしまうのだろう、と思う。ただ、夏時間には時計を1時間早めて生活しているだけで、それが3月に始まり、11月に終わるだけといえばそれまでだ。でも、私が気になるのはその狭間の時間だ。スキップした1時間と繰り返される1時間。そこには、語られるはずだった言葉の数々が歪んだ形で存在しているのかもしれない。
イギリスに来たばかりの夏、アンディというイギリス人と知り合った。ブロンドの髪をした青い瞳の青年で、コンピュータを勉強している修士の学生だった。アンディは図書館でアルバイトをしていて、本を借りたりする時にちょっと話をするという程度の知り合いだった。
彼は日本のことに興味があるらしく、日本で流行している映画やファッションのことを聞いてくる。そして、時々、「日本は恋しい?」と何かを傷つけまいとするように私に尋ねる。私が「恋しい」と答えると「そう」と困った顔で言う。私はその瞬間、日本の夏を、例えば、蝉の鳴き声を聞きながら畳に寝転がっていた、うだるように暑い午後のことや、賑やかな花火の夜や、金魚すくいをしたお祭りや、入道雲が見える海辺を思い出す。そして私は、そんな記憶を振り切るように、「イギリスに慣れてきたから、大丈夫」とか「クリスマスには日本に帰れるから」とか言う。するとアンディは、それはよかった、安心したよ、というような笑顔になるのだった。
そんなことが何度かあって、そのたびに思い出した日本の懐かしい夏の風景は、「恋しい」という言葉に封印されて心の中に大切にしまってある。
大学院生活で言葉を大切に感じるのはお茶の時間だ。イギリスでは、大学でもお茶の時間は大切にされる。11時と4時になるとカウンターが開き、マグカップを持った人たちが列を作る。紅茶とコーヒーとビスケットが販売されるのだ。いつもその3つを混ぜたような甘い匂いがぷんと漂ってくる。教授も技術者も秘書も学生もその時にはロビーに集まって、紅茶やコーヒーを飲みながら20分ぐらい話をする。
最初はこのお茶の時間があまり好きにはなれなかった。重要な実験の話の途中でも教授は、「そろそろ、お茶の時間だ」と言ってさっさと切り上げてしまい、その話はまた来週、ということになるからだ。
でも、なぜそんなにお茶の時間が大切にされるのか、今では少し分かる気がする。濃いアッサムティーにミルクと砂糖を少し入れて、クリームが挟まったビスケットを食べながらする日常生活のリラックスした会話の中に、その時間でしか生まれない、親密な言葉の数々を見つけることができるからだ。
英語を勉強し始めてもう15年以上にもなるにもかかわらず、言葉で苦労する毎日である。英語がもっとできるようになりたいなあ、といつも思う。
しかし、その一方で、言葉の奥にあるもの、例えば人柄や好意や気持ちというものは、言葉からだけではなくて、にじみ出てくるものだとも思う。誰かが話す英語を全部理解することができなくても、誰かの英語が流暢ではなかったとしても、「その人」を感じることができる。言葉も大切だけれど、言葉の奥にあるものはもっと大切なのだ。話していて‘その人らしさ’がふと垣間見える瞬間が好きだ。
私は屋上緑化を研究しているため、時々イギリスの屋上庭園を取材しに行く。屋上庭園は研究材料であるから、そこにあるものすべてを言葉に置き換えていかなければならない。どんな目的で作られたのか、どんな植物、潅水システムが使われているのか、土の厚さは、特徴、問題点は何か、そこからはどんな景色が見えるのか。屋上庭園で、人々は物思いにふけったり、おしゃべりを楽しんだりするのかもしれないが、私は目に見えない細部まで言葉で表現して、メモを取っていく。
でも、取材を終えて屋上に佇み、澄んだ高い秋空を眺める時や、どこからか気持ちのいいそよ風が吹いて来る時、見下ろす川がきらきらと光っている時、植物に季節の移り変わりを感じる時などは言葉はいらなくて、私にとって「言葉にならない」至福のひと時でもある。
なぜ留学をするのだろうと考える。これだけたくさんの情報がすばやく交錯する世の中では、わざわざ外国に行かなくては勉強できないことなどほとんどない。外国で暮らすことは、言葉、文化、食事などにおいて、日本ではしなくてもいい苦労をすることであるとも思う。しかし、その苦労をしなければ分からない世界や自分自身があり、たとえ大変な思いをしてもそれらを知りたい、見たいという好奇心があるのだろう。
外国での暮らしを支えてくれているのは、人々であり、その人たちから発せられる言葉だ。それは、英語であろうと日本語であろうとたいした問題ではない。外国で暮らしているとそういった言葉の持つ力、私とたくさんのものを、イギリスや日本、研究に対する興味、友人たち、そして自分自身の心を繋ぎ止めてくれる力をとても大切に思うようになる。
Can you hear? Yes. この言葉はイギリスで放送されていた、3つのシーンからなるTVCMで使われていた。
砂漠地帯で働いている救急ワゴン車の看護婦が真剣な顔をして何かを言う。問題を抱えた赤い髪の女性が社長に向って何かを怒鳴る。レゲエバンドの派手な服装のお姉さんが汗をかきながら微笑んで何かを言う。音は一切ないので、何を言っているのかは分からない。
言葉を言っている。言葉は聞こえない。でもCan you hear? Yes. なのだ。
あなたは聞こえていますか?
永瀬 彩子 Ayako Nagase
1976年生まれ。英国レディング在住。11月23日に大阪で屋上緑化の学会発表をします。また、過去の作品に短編集Works 1, 2, 3があります。どちらも興味がある方はayakonagase@mx7.ttcn.ne.jpにお問い合わせください。